【バルト三国】人間の鎖:Baltic Way(バルトの道)

DSC01676 1 - 【バルト三国】人間の鎖:Baltic Way(バルトの道) コラム

Baltic Wayをご存知でしょうか。

人間の鎖の一つで、バルト三国がソビエト連邦から独立する際、その意思表示として実施した活動。1989年の8月23日におよそ200万人の人が600kmに渡って作りました。すげぇ。

ちょっとそれを調べて行きましょう。

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どれぐらいの規模?

上と重複しますが、約200万(札幌市の人口ぐらい!)の人が手を繋いで600kmに渡って作りました。エストニアのタリン(旧市街地のトームペア)からラトビアのリガを通り、ダウガヴァ河を渡り、リトアニアのヴィリニュスにあるゲディミナスの塔まで。

1人90cmとして考えて、それが200万人だから、

0.9(m) × 2,000,000()

= 0.9 × 2 × 10^6

= 1.8 × 10^6

= 1,800 km

あれ・・相当密集して並んだのかな、600kmって直線距離なのかな・・いや道路が曲がっている以上そんなはずはない。

ま、いっか。

19時から15分ぐらい行われたらしい。この時人々は何考えてたんだろうな。

ちなみにBaltic Wayとかで検索すると当時の様子がYouTubeで見ることできます。

なお半径600kmは東京を起点にすると、南は海、東も海、西は松江市、北は青森市です。おお。

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独ソ不可侵条約締結の50年後に行われた

この人間の鎖はバルト三国がソビエトの元に入ることを勝手にドイツとソ連で決めたのは独ソ不可侵条約の秘密議定書への抗議。

この独ソ不可侵条約は1939年8月23日、このバルトの道の50年後に行われています。

この頃ソ連ではゴルバチョフによるペレストロイカとグラスノスチが行われており、デモが増えている時期だったらしいです。

ちなみに秘密議定書の存在はソ連は人間の鎖の一週間ぐらい前に認めてたらしいですが、あくまで勝手にバルト三国が望んでソ連に入ったことになっているらしいです。

けしからんな。

1986年の8月23日にはソ連の非人道的な扱いに対してニューヨーク、オタワ、ロンドン、ストックホルム、シアトル、ロサンゼルス、パース、ワシントンDCでデモが行われています。

8月23日は今でもBlack Ribbon Dayとしてナチズム・スターリニズムへの犠牲者への追悼の日となっています。

DSC01745 - 【バルト三国】人間の鎖:Baltic Way(バルトの道)
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DSC01676 2 1024x683 - 【バルト三国】人間の鎖:Baltic Way(バルトの道) 自由の記念碑

どうやって調整したのか。

ラジオとかで流れてたらしいです。

まずバルト議会の議員が企画し、地元の共産党に認可されて計画。と日本語版の某サイトには書かれていますが、英語版には誰が企画したはっきりしていないって書かれています。バルトの議員だけど具体的に誰かは守るために隠されているのかな。

無料のバスなどかなり周到な計画があったらしいです。そりゃそうか。

認可した共産党のことはわかりませんが、どんな気持ちで認可したんでしょうね。ソビエト加盟50周年おめでとう的な意味合いということで説得されて認可したのでしょうか。

提案したバルト議会の議員さんは本当にすごい。度胸もすごい。

独立しようと思い立ったまでの流れ

ソ連の事情

1970年代以降、ソ連は経済がひどく停滞。重い腰を上げたのが1985年のゴルバチョフが書記長に就任して以降。

1987年にはウクライナのチェルノブイリ原発事故でこのソ連の構造的問題が浮き彫りに。ゴルバチョフはペレストロイカとグラスノスチを進めていく改革を進めて行きます。

こんなウクライナの原発事故やゴルバチョフの改革で環境問題に対する運動が盛んに。例えばラトビアではダウガヴァ河へのダム建設の反対、バルト海の汚染からの保護活動、歴史的建造物保護活動などなど。

DSC01739 1024x683 - 【バルト三国】人間の鎖:Baltic Way(バルトの道)

環境保護活動からデモへ

始まりは人権保護団体ヘルシンキ86が1987年に呼びかけた「カレンダー・デモ」。

ソ連占領時代も壊されることがなかったラトビアリガの自由の記念碑に6月14日に静かに献花されたのが始まり。1941年のこの日はバルト三国の多くの人がソ連の奥地へと追放された最初の日。ラトビアでは続けて8月23日には独ソ不可侵条約への抗議のデモ。

1987年の11月18日にもデモ。この日は1918年の同日の独立宣言。88年3月23日にも集会、6月14日には第二次世界大戦後に初めてラトビアの国旗を掲げて国家を歌いながら追悼をする行進。「歌とともに闘う革命」。

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バルト三国への広がり、人間の鎖へ

1987年には以上のようにラトビアがデモのイニシアティブをとっていましたが、それがエストニアへと移り、リトアニアへ。

これが1989年の人間の鎖へとつながっていきます。

人間の鎖でメディアを通してバルト三国の連帯感が世界へと発信されます。

同年、11月9日、ベルリンの壁崩壊。

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本当に平和になってほしい

私はラトビアとエストニアは訪れたことがあります。

首都の旧市街地は観光地化されていることもありますが、本当に平和で、穏やか。

ラトビアは平坦な国土に白樺の林が広がる、そんな国。海岸線も広く、バルト海は保養地でもあるし海の幸も手に入る。経済的に大変なこともあったようだけれど、ロシアとの橋渡しでポテンシャルは大きい。

エストニアはIT国家。よくわかんないけどスカイプ作った国もエストニアだし、電子国家進めてる。

ぜひ平和な方へ向かってほしいです。

両国とも人口問題とか言語問題とか色々抱えているけれど、憎しみは憎しみしか産まない。人間の鎖に歌の祭典。そんな文化を守ってほしい。

そんな歴史を知り、またバルト三国にいきたいって思う。

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