過去、今、未来と時間は流れて行くけれども、「今」しか存在することができない。しかし、軽視されがち。
考えてみれば、ほとんど常に「今」よりも「未来」に重点をおいて生きてきたように感じる。
大学に入るために勉強したり、就職してから使える知識を身につけたり、本を読んだり。
「今」を満喫しているときは、食事、お風呂、旅行、登山だったり。仕事だって結局はある製品を作ったりとか、自分の給料のためや将来の何かに備えてであって、「今」のために必ずしも働いていないようにも思える。
人生において、学校教育などのは社会性や人間性を高めるための準備期間であると同時に、その時を楽しむものでもある。インプットすなわち準備であり、決してないがしろにしてはいけない。
その一方で、インプットすることが多すぎて結果的に「今」を見失っていて「未来」しか考えていないのが現状な印象もある。
つまり、「過去」は「今」への準備だったはずなのに、いつまでも「今」はこないで永遠に「未来」のためになっていることだってある。それが無駄だとかいうつもりはないけれども、シーケンシャルに続いて行く時間軸の中で、準備している「未来」とはいつなのか、それがわからなくなっていたり、「今」は常に「未来」しか見ていなかったりと。
「過去」があっての「今」なのだけれど、「今」のための「今」には永遠にならない気がする。
生きるって「今」を充足することが目的だけれど、準備してきた「過去」に対してその充足が少なすぎる気がする。
でも「今」は「未来」にとっての「過去」だから、「今」を生きることは過去を生きることであり未来を生きることだ。
でも、「今より若い時はない」。
うん、わからなくなってきたから次のページに進もうか。
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