ランドクルーザーは照明のない一本道を漆黒に向かって走った。
真っ暗な空と真っ暗な大地でどのあたりとは覚束なくなっている地平線が幻想的で美しい。闇夜では、時折くる向かいからのクルマのヘッドライトがいかに眩しいものなのか、またその逆に僕らの乗るランドクルーザーとてどれほど眩しいかを思い知る。すれ違うクルマがいなくなると、フロントガラス越しに星がいくつか見えて、その一番明るい星に向かって進んでいるように錯覚を覚える。
きっとスピーカーとかの車内の淡い明かりを消したら天の川がでーんって見えるのだろう。
今回のドライバーはホセではなくペーシー。すらりとした体型でニット帽にセーター姿のペーシーは若く陽気で明るそうに見えるが、そのインプレッションのペーシーの運転は意外と丁寧で、スピーカーから流れるラテンの音楽にはどうにも似つかわしくない。ただゆっくり行ってくれた方が安心なのでどれだけゆっくり進んでくれても構わない。
ノリノリの音楽に対して「これはどこの国の曲なの?」とペーシーに聞くと、「うーん、ラテンかな」とか答えにならない答えが返ってきた。そんなことはわかっとるわい(なお個人的には、ドビュッシーとかラヴェルとかのチルいピアノ曲を聴きながらそういう気分になりたかった)。
ラテンの音楽のせいなのか気が張っているのかはわからないが、連日の寝不足でクルマの中で寝落ちしてしまうだろうと思っていたが、全く眠たくならなかった。
僕は体質として場所によっては日常的に咳が出てしまうのだが、それで咳き込むとペーシーは「フリーオ、フリーオ(寒い、寒い)」と言ってクルマを脇に止め、上着を羽織るようにジェスチャーをする。そこまで寒いわけではなかったため「ノーフリーオ」と答えながらも、せっかく止まってくれたためフリースを羽織ることにした。確かにTシャツに薄手のパーカーしか着ていない。このパーカーもフリースも防臭のために持ってきていた自作ハッカスプレーでしばしば誤魔化しているものの、そろそろ洗濯したいと思ってから久しい。
ウユニからの舗装された道路は小さな村に着くあたりからオフロードに代わる。明かりがほとんどないこの村は、きっと昼間に僕らを含むツアー客たちきたところに違いない。その時は未舗装の通りに200メートルぐらいにお土産物屋さんが所狭しと軒を連ねており、アルパカだかリャマだかのマフラーや小物、塩とかをこぞって販売していた。そんな狭い空間にランドクルーザーばかりが20台〜30台程度駐車されている様子には驚かされたものだ。
今は漆黒の世界の一部となっていた。
ここからだ。ここをごちゃごちゃ曲がるとウユニ塩湖に入っていくのだ。
* * *
ウユニ塩湖の方にハンドルを切ると、優しく、ゆっくりと、しかし力強くエネルギーを放出する橙色の上弦の月が正面に見えた。クルマの中からでも「簡単には星空を見せまじ」といつも僕の邪魔ばかりをする月が、それ自体がこれほどお淑やかで美しい存在であるとは忘れてしまっていた。
塩湖に出てから、ペーシーはランドクルーザーを轍(わだち)に沿ってゆっくりと進める。窓を開けて時折フロントガラスなしで轍を確認する。これを見失うと戻るのが大変になるのだろう。私も習って助手席の窓ガラスを開けるが、クルマが切る乾いた風が頬を刺す。すぐに満足して窓ガラスを閉めようとするが、しばらく閉まるとモーターが悲鳴を上げて空回りし、しばらくしてまた動き出した。
かつてトヨタが自動車のEV化の文脈で「ランドクルーザーの電動化を見送る」と発表をしたときにその理由として「生きて帰るため」とかなんとか言っていたが、今を含め、サンペドロからウユニへのツアーの際にそれがどう言うことか幾度となく肌で理解した。また自動車のことはよくわからないが、動力源のハイブリッド化や電動化が進んでいき、途上国の中古車市場もそれらがメインにとって変わられた時に、先進国生活者では想像ができないほど使用された自動車が走りまくる途上国はハイブリッド車・電動車についていけるだろうか。現地でのそれらの修理改造が可能なのだろうか。
塩湖に出てから15分ほど経っただろうか、しばらくいくとペーシーはクルマを止めるか進むか聞いてきた。遠くにぽつぽつと見える街の明かりが全くなくなるまで進みたい気もしたが、一度泊まるのも悪くないかなと思い止まることに賛同した。
英語のできないペーシーがスペイン語ができない私に何か一生懸命語りかけてきた。「ルナ」と言う単語は聞き取ることができ、私は「Si」とか適当なことを言いながらマムートのダウンを羽織り外に出る。
思ったほど幾度となくイメージするほど寒くなく、ダウンパンツはいらないほどだ。ここを乾いた空気が心地よい。風は全くない。
僕が驚いているとペーシーがクルマから降りてきて「月が落ちるともっと綺麗だよ」と話しかける。スペイン語はほとんどわからないがそう言っているのが伝わってきた。
ペーシーはここで月が沈むのを見ようと提案してくれているんだな。
僕は三脚を立ててカメラを準備しているとペーシーも三脚を取り出し、僕から離れたところで月に向かってスマートフォンを三脚に設置し始めた。彼も四歳ぐらいバナナの月没に立ち会うのは珍しいんだろう。そう考えるとなんだか嬉しくなった。
天頂に向かって流れる天の川。
どこか遠くで、漆黒の空が漆黒の大地と溶け合う。
その地平線が月を力強く引き寄せる。
この光景をずっと見ていたいと思う僕の意思に反して、上弦の月は勢いよく地平線に溶けていった。
月はオレンジ色に輝き続け、さっきよりも明らかに地平線に近づいていた。無数の星が競うように白く光を放ち、また天の川がそれとはっきりとわかるように淡く道を作る。
* * *
昼間からそうだったのだが、前述のように塩原はどうしても雪を想起させ、雪国よろしく凍てつく空気と底冷えする厳しさを思い出させる。実際はグローブすらいらない程度で脳みそは幾度も混乱を覚える。
そんな雪国がそうであるように、月が沈んでしまった後の塩湖はなんとなくではあるが「思ったより暗くない」と感じた。おそらく無数に輝く光のカケラの淡いエネルギーを塩化ナトリウムを中心とした透明の結晶が乱反射してそう感じさせているのだろう。
「極夜行」という角幡唯介さんが冬の北極を旅する過酷で常人では達成できない探検譚の名作があるが、気温やその他のクレイジーな環境は差し置いて、彼の探検でも新月の時は24時間永遠にいつもこんな風だったのだろうか。
目の前にはどこまで続いてるかわからない真っ黒で、そして真っ白な平原。
空には見たこともない星空。
僕は目視での星空鑑賞と写真撮影を繰り返す。
ペーシーがクルマに戻った今、ウユニ塩湖とそこに降り注ぐ星空を独り占めしている気分になった。
* * *
キリがないので適当なタイミングで切り上げて後部座席で横になるペーシーに「動こうか」と伝える。彼は何か言って準備を始めてくれる。
僕は「アグア、アグア」(水、水)とアホみたいに連呼しながら、Google翻訳で「星空のリフレクションが見たい」とペーシーにダメもとで伝えた。ペーシーは「わかったよー」と言い、陽気なラテンな音楽とともにエンジンをふかし始めた。
ダメもとで、というのは前々日だかに親愛なるベテランドライバーホセ氏に「リフレクションが見たい」とオーダーしてみたが、ヤツは「この時期は乾季だからリフレクションは見られない。見られるのは1月から2月ぐらいだ。また見られたとしても風が強くて綺麗には見られないよ」と返答した。オバケ2人は「友人は12月でも見られてたのに今年はダメなのかな」と言い、私の周りにも年末年始ぐらいでリフレクションを見たと言っている友人もいた気がし、共にがっかりした。
確かにホセ氏に聞いた時は風が強かったこともあり、「この風では確かに綺麗にはみられないよね、次回に取っておくかな」なんて自分達に言い聞かせ、諦めていた。
ペーシーはウユニの街の光が見える方向にランドクルーザーを走らせる。窓を開けてクルマの轍を確認しながらゆっくりと。時折止まり、ここじゃないなあと行った具合に再度進める。彼が何を確認しているのか僕には全くわからないけどペーシーにはわかるに違いない。
15分ほど彷徨っただろうか、ついに水が一面に張っているところが見つかった。
先客がいるようで、ランドクルーザーが一台止まっており、そこで光を点けたり消したりしながら遊んでいた。さっきから光っていたのはここだったのか。
そこのランドクルーザーが見えないぐらいのところでペーシーはランドクルーザーをストップさせて「ここにしようか」と言ってくる(多分)。
僕はワクワクしながら準備をしているとペーシーは「足元が悪いし、また段差もあるからゆっくり歩いてね」と言ってくる(多分)。そんなことは当たり前だよなと思いながらも指摘されるまでそこの注意のことは完全に抜けていた。この空間では塩はどうにも雪と錯覚するし、水が足を濡らすとは考えが及ばないみたいだ。
ゆっくりと塩湖に降りる。そこから同心円状に水面が揺れたのを感じた。
---美しい。
ウユニの街の隣ぐらいから、空に流れる星の川をくっきりと目が捉え、それを足元の黒い塩湖がはね返す。
60ヶ国だか回った友人が「ウユニの星空で泣いた」と言っていたのが今ならわかる。
これまで見たことない、二倍の星空がウユニを覆う。
ついカメラの方に集中してしまうが、僕は思い切ってカメラの電源を落とす。
僕はイヤホンを取り出し、「水の戯れ」「月の光」なんかを聴きながら、(ほぼ)独り占めの塩湖、(ほぼ)独り占めの星空。
悠然と広がる天に向かって深く息をはいた。
---やっと、できた。
* * *
このウユニの星空を以って、僕の人生で最長だけど本当にちっぽけな旅は終わりに向かう。
日本出国ギリギリに買ってから3週間履き続けた黒色のノースフェイスのシューズ。帰りの飛行機の今でも、まだ白い星のカケラが付着したままだ。
(了)
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