宗教を怖いものと考えるのは間違っている。それは間違いない。
宗教は必要に迫られて作り上げられ、それに同感した人間が信じる道を選んでいるのだから。
選択する自由がないとかそういうケースも少なく、一部の原理主義が目立ってしまうのは大きな問題。
そんな宗教のつながりを考えてみる。宗教がわかれば文化の理解・世界遺産の理解にも繋がっていく。
多神教か一神教か
ざっくり言って、多神教と一神教がある。
その名の通り、前者は複数の神がいる。後者は神は一柱だけ。ご存知だとは思うが、多神教はヒンドゥー教、神道、一応仏教などが該当し、後者はユダヤ教、キリスト教、イスラム教がある。ゾロアスター教も基本的にはアフラ=マズダを神とする一神教である。
多神教
ヒンドゥー教の元になっているのがバラモン教と言われる。バラモン教がバラモンを頂点とした身分のピラミッド構造を作る。
そのバラモン教がヒンドゥー教となる。バラモン教が肌の色(ヴァルナ)をベースとした4つの身分をベースにしていたことが現在のカースト制の元となる。4つの身分とはバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ。
現在のアフガニスタンあたりの民族アーリア人がインドに侵入してくる際に信仰していた宗教がバラモン教と言われる。
バラモン教・ヒンドゥー教の3つの神
バラモン教およびヒンドゥー教には重要で人気がある3つの神がいる。
耳にしたことはあるだろうか。シヴァ神、ブラフマー神、ヴィシュヌ神である。
シヴァ神;悪いものを破壊する神
ブラフマー神;創造する神
ヴィシュヌ神;創造されたものを維持する神
これらは三神一体でもある。
このうちシヴァ神が仏教につながる。大黒天である。バラモン教で下の階層に位置する者たちは仏教のような新興宗教を信じるようになる。
インドはインダス川に文明を発する。ヒンドゥー語で川のことをShinduと呼ぶ。そのうちペルシャ語ではHinduとなる。これがインドの語源ともなった。
仏教へ
仏教はガンダーラ地方を通り中国シルクロードに入り日本に伝わっていく。大乗仏教(北伝仏教)である。またスリランカを通り東南アジアにつながる仏教がある。それが上座部仏教(南伝仏教。小乗仏教は差別用語なのでそう呼んではいけない)。
大乗仏教;菩薩(頑張って修行して皆を幸せにする人)を信仰する菩薩信仰
上座部仏教;修行して自分自身が幸せになる
上の写真は大乗仏教のお寺。
上の写真は上座部仏教。ミャンマーのバガン。
大乗仏教はチベットではチベット仏教となり、シルクロードを通って日本までつながる。上座部仏教はタイやミャンマーのような国で広がる。
上座部仏教のほうがストイックではあるが、大乗仏教のほうが民間に受け入れられそうである。よって大乗仏教が広がっていった。
ゾロアスター教
ゾロアスター教はペルシャ(イラン)で信仰されていた宗教。
ゾロアスター教の教えに善悪二元論の考え方や拝火教という側面がある。前者は天使と悪魔のようなついとなるものの存在の考え方だ。最後の審判、というもので善が勝つということになっている。そう、最後の審判の考え方はミケランジェロの絵、キリスト教につながる。
また拝火教という側面もユダヤ教・キリスト教に現れる。誕生日などで火を灯す文化である。
三大一神教
三大一神教;ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
これらは全てただ1つの同じ「神」を存在する宗教。ユダヤ教ではヤハウェと呼ばれ、キリスト教ではゴッドと呼ばれ、イスラム教ではアッラーと呼ばれる。
これら3つの宗教は三大一神教と呼ばれる。
ルーツとしてはユダヤ教があり、そこから派生したキリスト教、そしてその後にイスラム教。世界の様々なところで幅を効かせるユダヤ人の最大の発明は「唯一神」と解釈することも間違っていない。
下の写真、ブルーモスクはキリスト教・イスラム教が融合した建築。
ユダヤ教
ユダヤ教徒の選民思想
ユダヤ教徒には選民思想がある。神によって選ばれた民族であるという思想である。
ユダヤ教は下記のような教えがある。
・牛乳と肉を混ぜない
・土曜日が休み(イスラム教は金曜日が休み)
・ヤハウェ(エホバ)を信仰
・旧約聖書を信仰の主体
・シナゴーグが教会みたいなやつ
・偶像崇拝禁止(イスラム教も)
・言語はヘブライ語
・豚・ラクダ・ウサギ・馬は食べてはならない。鱗のない魚介類も食べてはならない。蹄が割れている動物は食べて良い。反芻する動物は食べて良い。
イエスを十字架にかけたのがユダヤ人なので迫害された歴史がある。
シナゴーグにはトーラーの巻物が置かれた箱がある。
なお現在ユダヤ人は人口的にアメリカ、イスラエル、ロシアの順になっている。有名人は非常に多く、ビルゲイツやスタバの社長、スピルバーグなど数多。特に財界で頭角を表す。
イエスとは何者か。
イエスの考え方に三位一体(トリニティ)がある。
つまり、聖霊、神、イエスは一体であるという思想である。
他の考え方としてアリウス派はイエスは人としての性質であるという「人性」とする。ネストリウス派はイエスは「人性」であったがその過程で「神性」となったという説を採用する。コプト派はそもそも「神性」であるという考え方を持つ。
キリスト教
キリスト教といっても大きく3つに分かれる。
カトリック、正教会、プロテスタントである。
カトリックでは聖霊は神、つまりイエスから現れると考える。正教会では神から現れると考える。
正教会ではイコンを崇拝し、立体像の崇拝を禁止する。カトリックならば離婚は波紋者であるが正教会ではやむを得ないものと考える。
果たして子供が受ける洗礼は本当の洗礼なのだろうか?そこに本人の意思はなく、自分の選択として受け入れられるものなのだろうか。そんな考え方もキリスト教の中では現れている。
イスラム教へ
そしてイスラム教へ。
イスラム教もただ一つの神アッラーを信じている。生活に非常に密着した宗教というのはご存知の通りだ。
国によってかなりそのあり方は異なる。例えばトルコのような緩めのところからサウジアラビアのように女性は常にヒジャブをかぶる必要があるところ。
イスラム教も一部の原理主義を除き、決して危険な宗教ではない。他の宗教同様、人を救うために発生しているものなのだから。
ただ思想がキリスト教やその他の宗教とは異なっている点もあるため受け入れられにくいところはある。
信者が悪いのでも宗教が悪いのでもなく、一部の悪目立ちしてしまうものが悪いということは理解する必要があるし、実際そうなのである。
培われた土壌が違えば文化が違うのは当たり前であり、共生できる。その理解だけが、重要なのである。
本記事は代ゼミの佐藤幸夫先生のご講義を参考にしています。ありがとうございました。
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