世界遺産の登録されている石見銀山。登録名称は「石見銀山遺跡とその文化的景観」。
石見銀山とは?
石見銀山は島根県大田市大森町にある銀山。1526年に神谷寿貞によって開発が進められ、1533年には博多から技術者を招聘して朝鮮から伝来した灰吹法によって生産効率をあげます。1550年代にこの地域を支配していた大内氏が滅亡すると矢筈城、石見城でこの地の攻防の末、1562年には安芸地方の毛利氏が支配します。
その後に幕府のもとから派遣された大久保長安のもとで銀山経営が行われ、大森地区の整備、山師による銀山経営の一部委託を進めていき1620年から1640年には年間1〜2トンの銀を生産。最盛期を迎えます。
一時は世界の銀の生産量の3分の1が日本で生み出されたと推算されますが、その大部分がここ、石見銀山で採掘されたと考えられています。
銀が当時の日本の経済を回し、ヨーロッパを中心に世界に多く出回りました。
銀山としては1923年に閉山しています。
世界遺産としての石見銀山
石見銀山は「石見銀山遺跡とその文化的景観」として2007年に世界遺産に登録、2010年に登録範囲変更となっています。
世界遺産としては「銀鉱山跡と鉱山街」「街道」「港と港街」の三つの分野に渡っており14の構成資産からなります。
「銀鉱山跡と鉱山街」には16世紀から20世紀にかけて銀鉱石の採掘から精錬まで行っていた銀山柵内や清水谷製錬所跡、600もの間歩(手作りの坑道)、銀山街、石見城跡が含まれます。
「街道」は銀鉱山と港との間に整備され、銀鉱石や銀の搬出を始め、様々な物資の輸送を担っていた石見銀山街道などの2本の運搬路が含まれます。
「港と港街」は鞆ヶ浦港と沖泊港の二つの港とその関連施設、温泉津(ゆのつ)が含まれます。
これらの構成資産が銀山開発における社会構造や基盤の全体像を示す証拠となっています。
さらにこれらの遺構周辺には19世紀まで銀生産や住民たちの生活で使用された薪炭材の供給源となっていた森林が残っており、文化的景観として認められました。
登録基準(ii)
16から17世紀初頭の大航海時代に石見銀山の銀の生産量はアジアおよびヨーロッパの貿易国において重要な役割を果たしました。
商業的文化的交流をもたらしたことが「文化の価値観の相互交流」となったと評価されています。
登録基準(iii)
日本の金属採掘と生産における技術的発展は小規模な「労働集約型経営」に基づく優れた運営形態の進化をもたらし、採掘から精錬までの一連の技術全体を包括するに至りました。
江戸時代の幕府の政策でヨーロッパの産業革命で現れた技術の導入は遅れましたが、19世紀後半には伝統的な技術に基づくこの地域での鉱山活動は停止。
その結果、考古学的遺跡が良好な状態で保存されることとなりました。その価値が文化的伝統に関する証拠を示す遺産として評価されています。
登録基準(v)
独自の伝統的集落や人類との交流を示す遺産が該当。
鉱山経営には鉱山だけではなくインフラが必要です。このインフラに関わる遺構の大部分は現在では山林の景観に覆われています。その結果、文化的景観の「残存する景観」は銀生産に関わった人々が長く生活してきた集落などの「継続する景観」の地域を含んでおり、歴史的土地の利用のあり方を示しています。
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日本で文化的景観として登録されているものは石見銀山と「紀伊山地の霊場と参詣道」です。
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